伊勢神宮 御田植祭

<伊雑宮お田植え祭りについて>

車戸 凛子

 伊雑宮は日本に於ける最高神、天照大神を祀る神宮の別宮ですが、ここのお田植え祭りは一般的なお田植えよりも遅く、毎年、6月24日に行われます。何故、この日なのかは定かではありませんが、巷で言われている日ユ同祖論を持ち出すと、結構説明できそうです。「伊雑」という名称は、初めて救世主の登場を預言した預言者イザヤを連想させますし、旧約のハガイ書には、エルサレム第二神殿の建設に取り掛かった日とされていますが、それと関係があるのでしょうか?関係があるとしたら、伊雑宮こそ本来の神殿、すなわち、本来の神宮なのでしょうか?

 伊雑宮の向かい側には神武参剣道場がありますが、そこにはユダヤのシンボルとも言える六芒星が描かれています。神武は初代天皇ですが、その名を冠する道場にユダヤのシンボルがあるのは、この旧約説を裏付けるのでしょうか?

 



 さて、お田植え祭り会場の畔にはゴンバウチワという大きな竹柱が立てられており、中心の太い柱を忌竹と言います。それは神話に登場する天御柱の別名、忌柱に由来しますが、神宮では「忌」というのは「この上なく清浄」と言う意味で使われ、例えば、毎日の神饌を準備するための火は「忌火」と言われています。しかし、普通は人の死に関わる場合に使われますから、これには何か、深い意味が隠されているのでしょう。

 



 そのゴンバウチワには目出度い宝船と「太一」という文字が書かれています。「太一」というのは神宮を象徴するとされる文字ですが、陰陽道の基になった中国の道教では天に於ける不動の星、北極星を意味します。しかし、神宮は太陽神を祀る宮ですから、これは矛盾しています。

 「太=太秦の太=ウズ」で、イエス・キリストのことをヘブライ語ではヨシュア・メシアッハー、アラム語ではイシュ・マシャ、メソポタミア東部やインドではイズ・マシと言いますが、もし「太秦」が「イエス・キリスト」の転訛だとすれば、「太」は「イエス」という意味になります。イエスは人類の贖罪を背負って十字架に掛けられましたから、ある意味、人類にとっての光でもあります。そうすると、「太一」は「唯一の光、イエス」を表すことになりますが、如何でしょうか?もし「太一」がイエスだとしたら、「忌」という普通は人の死に関わる字が使われていることも納得です。

 

 肝心のお田植え祭りですが、午前中にまず、お田植えする早乙女たちが苗場を3周半する所作で苗取りが開始されます。3周でもなく4周でもなく3周半なのは、何か特別な意味がありそうです。そこで思い浮かぶのが、ユダヤ神秘主義の根幹とも言える「生命の樹」に3回転半で巻き付いている蛇ですが、そうなのでしょうか?日本では確かに蛇は神様の扱いですが、ユダヤ教やキリスト教では忌み嫌われる存在です。

 その後、畔に立てられていたゴンバウチワを立人が3回あおぎ、神殿の中心に向かって倒します。これは、先ほどの「生命の樹」の関係から言うならば、「生命の樹」に於ける絶対三神崇拝を暗示するのかもしれません。



 そこに、下帯姿の近郊漁村の青年たちが集まり、勇壮な竹の奪い合いが行われます。その奪った竹、特に宝船の描かれた紙の付いた竹は御利益があるとされ、各自が持ち帰って船に供え、大量祈願などのお守りとされます。もし「太一」が前述のようにイエスの暗示ならば、この竹片はイエスの体の一部で、そのイエスの体を分け与えるということは、聖体拝領となります。あるいは、十字架に掛けられたイエスから剥がされた服をローマ兵が破って分けましたが、その方が適切な解釈かもしれません。いずれにしろ、そんなことが日本の最高神を祀る神宮の別宮で行われているのだとしたら、これは大変なことです。

 



 その竹取り神事が終わると、お田植えが始まります。この際、少女に扮した78歳の童男1人が太鼓を打って囃し立て、「エンヤー」の掛け声を掛けます。何故、男の子が女装するのでしょうか?「エンヤー」は神宮式年遷宮行事の御木曳きなどでも掛けられますが、どういう意味なのでしょうか?


 伊雑宮は神宮の別宮で、天照大神をお祀りします。その天照大神は女神です。もし、本当はイエスが祀られていて、それが何らかの理由で女神に変えられていたとしたら、この男の子の女装は、女神に変えられたイエスを暗示しているのかもしれません。



 また、英語の"ark"はラテン語の"arca"に由来し、これには「箱船」「契約の箱」の両方の意味が含まれており、更には「船」の意味もあるようです。もし、この童男の乗っている船が「契約の箱」だとしたら、「契約の箱」の贖いの座にイエスがいることになり、これは更に大変なことです。



 しかし、このお祭りはお田植えで、豊穣を祈る神事です。イエスには、豊穣の象徴は無いのです、残念ながら!それに、漁師が田植えをするのですから、そこには何か深い意味があるのでしょう。



 世界中で豊穣の神の根源神と言えば、シュメールの女神イナンナです。神話では、イナンナは姉によって木に掛けられて死に、復活しましたから、イエスの原型とも言えます。また、イナンナは海洋民フェニキア人の主神イシュタルでもあります。フェニキア人は世界中に航海していましたが、もし、彼らが太古の日本列島にやって来て、原日本人の一部となっていたとしたら、何となく辻褄が合いますし、太古のロマンを感じさせます。それに、フェニキアは北イスラエルと隣り合い、互いに交流していましたから、ユダヤの影響を受けていても不思議ではありません。また、フェニキアという地名は「フェニックス」に由来しますが、これは不死鳥です。日本は古代から、大陸の東の果てにある不老不死の国とされてきましたから、これも何か関係がありそうです。



 もし、シュメールの神々に関係しているとしたら、「エン」という言葉はシュメール語で「支配者」とか「主」を意味しますから、先ほどの掛け声「エンヤー」は「主ヤー」という意味になります。また、「太秦」の「太」もシュメールの太陽神ウツの転訛と見なせば、「太一」は「唯一の光、太陽神」という意味にも解釈できます。



 それに、シュメールでは蛇に喩えられた神々もいますから、「蛇神」という概念はシュメール由来なのかもしれません。



 果たして真相は、どうなのでしょうか?

 

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